猿喰新田潮抜き穴跡
■ 時風1035 ■ 2013-05-24 ■ 投稿者: 野村たけし
猿喰新田開作は、江戸時代中期に大里村の庄屋であった
石原宗祐が、飢饉に苦しむ農民を救うため、、庄屋の
職を辞し、私財を投入して行なった干拓事業です。
その広さは、約33ha。
新田の中央には、かんがい用水ろである中川が
流れ、さらに海への排水用の暗渠を湾の両側に
2基ずつ築きました。これが、
潮抜き穴と呼ばれている樋門です。現在、湾の東側に
2基残っています。
石原宗祐が、飢饉に苦しむ農民を救うため、、庄屋の
職を辞し、私財を投入して行なった干拓事業です。
その広さは、約33ha。
新田の中央には、かんがい用水ろである中川が
流れ、さらに海への排水用の暗渠を湾の両側に
2基ずつ築きました。これが、
潮抜き穴と呼ばれている樋門です。現在、湾の東側に
2基残っています。