AKB48ではなく、AKY1筑豊の御三家・安川と旧松本家住宅
■ 時風1041 ■ 2013-05-25 ■ 投稿者: 野村たけし
福岡県の筑豊地方は、明治期、石炭の産出が盛んであった。当時、筑豊の御三家といえば、麻生(麻生太郎元総理大臣の家系である。)、貝島、安川(敬一郎)である。(AKBではなくて、AKYである。)これに堀、伊藤(伝右衛門…柳原白蓮の夫)を加えて「筑豊5大炭鉱主」と呼び、栄華を誇っていた。
安川敬一郎は、1848年、筑前福岡藩士、徳永の4男として生まれた
が、のち、安川岡右衛門の養子となった。廃藩置県による世禄制度廃止により家業として炭鉱業を選んだ。兄松本潜とともに明治7年穂波町相田炭鉱を手始めに逐次事業の拡張をはかり、数多くの炭鉱を開発、同23年、ようやく赤池炭鉱の起業、さらに田川、豊国、多久、高田などの各炭鉱の経営を成功させ、明治鉱業の長期安定の基礎を固める一方、戦前満州の石炭採集。
そして同42年、理想の「教育ユートピア」を目指して、明治専門学校(現、戸畑区の九州工業大学)を開校し、翌43年には、同附属小学校(現、明治学園)をつくり、「文教のまち」として戸畑区の発展につくした。また、住宅兼迎賓館として、建設した旧松本家住宅は、国の重要文化財に指定されている。
なお、安川敬一郎の次男が、養子に行った松本健次郎である。
「趣味悠々 園芸と日記と写真館Ⅱ」
http://heiji303.blog21.fc2.com/より引用抜粋
安川敬一郎は、1848年、筑前福岡藩士、徳永の4男として生まれた
が、のち、安川岡右衛門の養子となった。廃藩置県による世禄制度廃止により家業として炭鉱業を選んだ。兄松本潜とともに明治7年穂波町相田炭鉱を手始めに逐次事業の拡張をはかり、数多くの炭鉱を開発、同23年、ようやく赤池炭鉱の起業、さらに田川、豊国、多久、高田などの各炭鉱の経営を成功させ、明治鉱業の長期安定の基礎を固める一方、戦前満州の石炭採集。
そして同42年、理想の「教育ユートピア」を目指して、明治専門学校(現、戸畑区の九州工業大学)を開校し、翌43年には、同附属小学校(現、明治学園)をつくり、「文教のまち」として戸畑区の発展につくした。また、住宅兼迎賓館として、建設した旧松本家住宅は、国の重要文化財に指定されている。
なお、安川敬一郎の次男が、養子に行った松本健次郎である。
「趣味悠々 園芸と日記と写真館Ⅱ」
http://heiji303.blog21.fc2.com/より引用抜粋