立場茶屋銀杏屋
■ 時風2840 ■ 2015-10-14 ■ 投稿者: Shunkei
長崎街道の石坂の上、現在の八幡西区石坂一丁目。
昔、この街道の茶屋は黒崎宿と木屋瀬宿の間にある休憩所でした。
長崎街道を歩き、石坂の急坂を昇り一息を入れた大名たちの「御小休所」でした。
一般の人々は利用できないようでした。
九州の各地から大名の参勤交代や江戸~長崎間を旅する役人や高官たちが休息する「お茶屋」です。
参勤交代の諸大名、長崎奉行、ドイツのお医者「シーボルト」、日本の地図を最初に作った「伊能忠敬」も、この銀杏屋で休憩されたそうです。
庭に大きな銀杏の木があることから銀杏屋と呼ばれていました。
天保7年(1836年)10月に火災で消失し、銀杏の木も同時に焼けてしまいましたが、残った根株から芽がでて、現在のような銀杏の木になりました。
現在は、北九州指定文化財(史跡)となっていて、中に入ると、落ち着いた部屋の作りになっていて、「和」を感じます。
庭の大きな銀杏の木は圧倒されますが、とても落ち着く空間で、休憩された大名の方々は「ほっ」とされたのではないかと思います。
歴史ある長崎街道をゆっくり歩いてみませんか。
昔、この街道の茶屋は黒崎宿と木屋瀬宿の間にある休憩所でした。
長崎街道を歩き、石坂の急坂を昇り一息を入れた大名たちの「御小休所」でした。
一般の人々は利用できないようでした。
九州の各地から大名の参勤交代や江戸~長崎間を旅する役人や高官たちが休息する「お茶屋」です。
参勤交代の諸大名、長崎奉行、ドイツのお医者「シーボルト」、日本の地図を最初に作った「伊能忠敬」も、この銀杏屋で休憩されたそうです。
庭に大きな銀杏の木があることから銀杏屋と呼ばれていました。
天保7年(1836年)10月に火災で消失し、銀杏の木も同時に焼けてしまいましたが、残った根株から芽がでて、現在のような銀杏の木になりました。
現在は、北九州指定文化財(史跡)となっていて、中に入ると、落ち着いた部屋の作りになっていて、「和」を感じます。
庭の大きな銀杏の木は圧倒されますが、とても落ち着く空間で、休憩された大名の方々は「ほっ」とされたのではないかと思います。
歴史ある長崎街道をゆっくり歩いてみませんか。