軍馬忠霊塔:勝山公園(慰霊塔)
■ 時風3601 ■ 2018-12-06 ■ 投稿者: 北九州市時と風の博物館事務局
明治27年(1894)の日清戦争以降、全国各地から多くの兵士と軍馬が朝鮮半島、中国大陸やシベリア方面に出兵したが、各所での激戦の中で軍馬も戦死し、あるいは飢餓や病魔に斃れていったという。
旧小倉市の坪根金一(明治21年~昭和37年・1888~1962)は、10代で陸軍乗馬隊の兵士として日露戦争(1904~1905)に従軍し、この様を目のあたりにした。
帰国後、現在の室町で旅館業を営んでいた坪根金一は、その後も、戦争の度に日本全国から戦地に行きほとんど帰ってこなかった数十万頭と言われる軍馬の霊を慰めるため、昭和13年(1938)50才の時に『一人1銭、100万人で1万円』を目標とした慰霊碑建立の願いを立て、5年間、国民服を着て全国各地を巡り街頭募金を行ったが、坪根金一翁は『馬爺い』の愛称で親しまれたという。この期間、朝鮮、満州、台湾にも渡り各部隊の軍馬をねぎらい、戦没軍馬をとむらいながら目標の1万円が集まり、昭和17年(1942)にこの像を建立した。なお、馬の像は、戦場で傷つき、置き去りにされ、立つ事も出来ず、首をもたげて進軍を振り返る姿と言われる。
《出典:現地碑文、北九州史跡同好会発行・「北九州の史跡探訪」、馬渡博親著・「ですかばあ北九州・石碑は語る」》
旧小倉市の坪根金一(明治21年~昭和37年・1888~1962)は、10代で陸軍乗馬隊の兵士として日露戦争(1904~1905)に従軍し、この様を目のあたりにした。
帰国後、現在の室町で旅館業を営んでいた坪根金一は、その後も、戦争の度に日本全国から戦地に行きほとんど帰ってこなかった数十万頭と言われる軍馬の霊を慰めるため、昭和13年(1938)50才の時に『一人1銭、100万人で1万円』を目標とした慰霊碑建立の願いを立て、5年間、国民服を着て全国各地を巡り街頭募金を行ったが、坪根金一翁は『馬爺い』の愛称で親しまれたという。この期間、朝鮮、満州、台湾にも渡り各部隊の軍馬をねぎらい、戦没軍馬をとむらいながら目標の1万円が集まり、昭和17年(1942)にこの像を建立した。なお、馬の像は、戦場で傷つき、置き去りにされ、立つ事も出来ず、首をもたげて進軍を振り返る姿と言われる。
《出典:現地碑文、北九州史跡同好会発行・「北九州の史跡探訪」、馬渡博親著・「ですかばあ北九州・石碑は語る」》