小倉藩最後刀匠 『紀 政廣』
■ 時風3781 ■ 2020-06-22 ■ 投稿者: 筑前信国吉政
小倉藩(小笠原家)最後刀匠 紀 政廣です。慶応三年八月は、小倉藩の藩士と家族達は、小倉藩vs長州藩との戦で小倉城下より香春に転進しており政廣刀匠も銘の様に小倉城下には住んではいませんが、香春で小倉藩士の為に小倉城下を偲んでこの脇差を鍛刀したんでしょうね。長州と停戦後も、再三、新政府(長州藩)に小倉城下(企救郡)への帰参を願い出ましたが、関門海峡を支配下に置いときたい長州藩は、全て却下、香春藩→豊津藩の立藩へと移行していきます。豊津に移動してからの政廣さん、まだ諦めずに、小倉住と銘を切って作刀して廃刀令直前に、もう諦めたのか豊津住の銘を切ったのが現存します。しかし作刀を依頼した、小倉藩士が香春でも豊津でも、小倉城下に帰るのを願い小倉住と切らせたのかもしれませんね。この政廣刀匠は、廃刀令以降は築上町、伝法寺村に移住し農具を製作する野鍛冶として余生を過ごしました。弟子に紀 政行、その息子に政次がいます。
政行は、小倉南区高津尾に鍛刀場をもうけ昭和9年には、その子政次との合作の短刀が帝国美
術展に入賞するなど、わが国有数の刀匠として名を成しました。しかし、政次の死後、備前伝晒鍛の秘伝は永遠に小倉の地から消えました。
小倉城下に帰りたかった、政廣さんや旧小倉藩士の為に、この脇差の刀袋を小倉藩に因んだ小倉織りの縞縞さんに依頼しようと思います。
政行は、小倉南区高津尾に鍛刀場をもうけ昭和9年には、その子政次との合作の短刀が帝国美
術展に入賞するなど、わが国有数の刀匠として名を成しました。しかし、政次の死後、備前伝晒鍛の秘伝は永遠に小倉の地から消えました。
小倉城下に帰りたかった、政廣さんや旧小倉藩士の為に、この脇差の刀袋を小倉藩に因んだ小倉織りの縞縞さんに依頼しようと思います。