小笠原氏が小倉に入府前の細川藩時代の刀工
■ 時風464 ■ 2012-07-04 ■ 投稿者: 平四郎吉政
銘 豊州小倉住大和守藤原宣貞 元和八年十一月吉日 小倉北区個人蔵
肥後拵で有名な、歌仙拵(刀身之定)、信長拵(刀身信長)、希首坐拵の三振りが有名ですが、その希首坐拵えの刀身の作者がこの宣貞です。 豊前の宇佐八幡宮の宝物館に 大和守藤原宜貞の剣が奉納されており現在宝物館で公開されております。 元和六年十二月、細川忠興の家臣河喜多五朗左門正重が長剣を奉納。 寛永三年三月に忠興本人が短剣を奉納しております。 福岡県史、近世史料編・細川小倉藩」には、忠利が家督した直後の元和九年五月から肥後入国直前の寛永八年十一月までの覚書や日帳が納められていてその中に下記の記録が残っております。
・大道打之御大脇指、寺尾左介(勝永)方へ渡ス也(九年五月九日) ・当町ニて、似横目ノ似仕候者、今日誅伐仕候、御大脇刺大道打、一ノ筒ヲためし申候、あばら弐枚かゝり申候九年五月十日 ・寺尾左介所より、大道打之御脇刺筒ヲためし、あはら弐枚かゝり申候ヲ、今一度ためし申候やと被申、持せ被上候(九年五月十六) ・大道打、宜貞打ノ御腰物弐腰、とき(研)はゝき(鎺)出来候事(九年五月二十三日)
・宜貞打ノ御大脇指壱腰、うちかへ上ケ候事九年五月晦日)
・(国遠)道倫小者久次御成敗候事 御大わきさし宜貞、御腰物大道、何も筒落候也(九年六月十六日)
・宜貞打替候御腰物壱腰、けん鑓壱つ、さゝのは(笹葉)鑓壱つ、大道打ノ中わきさし壱腰、寺尾左介より被上候を・・・・(九年八月十日)
この時期いまだ戦場をへ巡る武士の荒々しい気風が残されており、試し切りなどが日常的に行われていることが記録されている。忠利自身も行っている様です。 妙解院殿忠利公御代於豊前小倉「御侍帳并軽輩末々共ニ」に、下記の記録が残っております。 ・細工之者諸職人
拾石 刀鍛冶 大道左兵衛
五人 刀鍛冶 大道左太郎
拾人扶持 鑓鍛冶 宣貞
肥後拵で有名な、歌仙拵(刀身之定)、信長拵(刀身信長)、希首坐拵の三振りが有名ですが、その希首坐拵えの刀身の作者がこの宣貞です。 豊前の宇佐八幡宮の宝物館に 大和守藤原宜貞の剣が奉納されており現在宝物館で公開されております。 元和六年十二月、細川忠興の家臣河喜多五朗左門正重が長剣を奉納。 寛永三年三月に忠興本人が短剣を奉納しております。 福岡県史、近世史料編・細川小倉藩」には、忠利が家督した直後の元和九年五月から肥後入国直前の寛永八年十一月までの覚書や日帳が納められていてその中に下記の記録が残っております。
・大道打之御大脇指、寺尾左介(勝永)方へ渡ス也(九年五月九日) ・当町ニて、似横目ノ似仕候者、今日誅伐仕候、御大脇刺大道打、一ノ筒ヲためし申候、あばら弐枚かゝり申候九年五月十日 ・寺尾左介所より、大道打之御脇刺筒ヲためし、あはら弐枚かゝり申候ヲ、今一度ためし申候やと被申、持せ被上候(九年五月十六) ・大道打、宜貞打ノ御腰物弐腰、とき(研)はゝき(鎺)出来候事(九年五月二十三日)
・宜貞打ノ御大脇指壱腰、うちかへ上ケ候事九年五月晦日)
・(国遠)道倫小者久次御成敗候事 御大わきさし宜貞、御腰物大道、何も筒落候也(九年六月十六日)
・宜貞打替候御腰物壱腰、けん鑓壱つ、さゝのは(笹葉)鑓壱つ、大道打ノ中わきさし壱腰、寺尾左介より被上候を・・・・(九年八月十日)
この時期いまだ戦場をへ巡る武士の荒々しい気風が残されており、試し切りなどが日常的に行われていることが記録されている。忠利自身も行っている様です。 妙解院殿忠利公御代於豊前小倉「御侍帳并軽輩末々共ニ」に、下記の記録が残っております。 ・細工之者諸職人
拾石 刀鍛冶 大道左兵衛
五人 刀鍛冶 大道左太郎
拾人扶持 鑓鍛冶 宣貞