葛島と燃石
■ 時風556 ■ 2012-08-10 ■ 投稿者: guest
葛島は戸畑・八幡・若松の間に横たわる洞海湾の中にありました。
洞海湾は昔「洞(くき)の海」と言われ、現在の3倍以上の海域がありました。湾内には最大の葛島(資波島)のほか中の島、亀島、都島、松ヶ島、裸島、二ケ島などの小島や、十以上の浅瀬がありました。湾には幾筋もの川が流れ込み魚介類の宝庫でもあったようで、古墳時代から人が住み始めたともいわれています。
貝原益軒の筑前国続風土記(1703年)によれば、遠賀・鞍手・嘉麻などの山野に燃石(もえいし=石炭)なるものがあり、村民はこれを薪代わりに利用しているとあります。時を経て1764年、若松においては、庄屋和田佐平(伏見屋)が製塩燃料として使用方法を考え、鉄鋼を用いて燃焼する方法を考案し非常に歓迎され次々と注文がくるようになりました。注文が増えるにつれ貯炭場が必要となり、造船所や民家などがあったので葛島を貯炭場として活用することになったようです。
堀川を往来する焚石川ひらたは1824年には年間6,500隻にもなり若松の港にも相当数の川ひらたや商船が入港していたようです。
また、遠賀川一帯で石炭の採掘と取引が盛んになるにつれ、福岡藩では統制に乗り出すようになり1826年には芦屋と若松に焚石(たきいし=石炭)会所を設置しましたが、若松の製塩用燃料に限り堀川から直接若松に運送することが認められていました。
1959年、新日鐵の用地となり、その後埋め立てられ、現在は地続きとなっています。
洞海湾は昔「洞(くき)の海」と言われ、現在の3倍以上の海域がありました。湾内には最大の葛島(資波島)のほか中の島、亀島、都島、松ヶ島、裸島、二ケ島などの小島や、十以上の浅瀬がありました。湾には幾筋もの川が流れ込み魚介類の宝庫でもあったようで、古墳時代から人が住み始めたともいわれています。
貝原益軒の筑前国続風土記(1703年)によれば、遠賀・鞍手・嘉麻などの山野に燃石(もえいし=石炭)なるものがあり、村民はこれを薪代わりに利用しているとあります。時を経て1764年、若松においては、庄屋和田佐平(伏見屋)が製塩燃料として使用方法を考え、鉄鋼を用いて燃焼する方法を考案し非常に歓迎され次々と注文がくるようになりました。注文が増えるにつれ貯炭場が必要となり、造船所や民家などがあったので葛島を貯炭場として活用することになったようです。
堀川を往来する焚石川ひらたは1824年には年間6,500隻にもなり若松の港にも相当数の川ひらたや商船が入港していたようです。
また、遠賀川一帯で石炭の採掘と取引が盛んになるにつれ、福岡藩では統制に乗り出すようになり1826年には芦屋と若松に焚石(たきいし=石炭)会所を設置しましたが、若松の製塩用燃料に限り堀川から直接若松に運送することが認められていました。
1959年、新日鐵の用地となり、その後埋め立てられ、現在は地続きとなっています。